「セクハラ罪はない」発言を批判する

麻生財務大臣が「セクハラ罪はない」と発言し、批判されている。

 

ただ、この発言は、全文が出ていないので評価しきれない。メディアはなぜ公表しないのか。公表しないからこそ、「恣意的に切り取った」という批判が絶えないのではないか。

 

その前提において、以下に、各社報道から知る情報の範囲内においての私の考えを述べるが、結論としては、麻生財務大臣の本発言は批判されるべきである。


なお、私は法律家ではないので、法的な部分において誤りがあれば、法クラスタの方に指摘いただきたい。また、麻生大臣の問題発言のその後のぶら下がりにおける「親告罪だから」等の論理破綻については話がブレるので触れないこととする。

 

 

◼︎3つの角度からの批判


そもそも、誰かの発言が非難されるときは主に3つの角度がある。それはつまり、①表面上の内容の正当性、②本意の正当性、③発言すること自体の正当性である。

 

 

①表面上の内容の正当性


まず、「セクハラ罪はない」という文は、一旦文脈を無視して素直にとれば、「a.セクハラは罪ではない」か「b.セクハラで区切った罪はない」か「c.『セクハラ罪』という名前の罪はない」のどれかとなる。


まず、「a.セクハラは罪ではない」は誤りである。民事上は加害者は不法行為責任を問われる可能性がある。刑事上は、身体的接触があるなど過度な場合は強制わいせつ罪の可能性が、身体的接触がなくても発言が悪質な場合は侮辱罪となる可能性がある。さらにいえば、職場や仕事でのセクハラの場合は、加害者本人でなく使用者にも不法行為責任や男女雇用機会均等法の不遵守などの責任がある。(麻生さんはこの点で完全なる当事者であることを、認識していないかもしれない。)


無論、罪にまで至らないセクハラもある。その意味で、「b.セクハラで区切った罪はない」は正しい。おそらくここで論点になりうるのは、「罪」の定義の方ではないだろうか。それはつまり、「罪」が法的な手続きに則った民事、刑事上の責任をいうのであれば、確かにセクハラで区切った罪はない。しかし一方で、「セクハラは人権侵害である」という論が社会通念上同意されているのであれば(反論はあるかもしれないが)、その意味でセクハラはセクハラで区切られて罪である。


最後の「c.『セクハラ罪』という名前の罪はない」は論外である。そんな主張を許せば、「人殺した罪」という名前の罪もない。子供の屁理屈レベルだし、この受け取り方で麻生大臣を擁護したり非難したりする人も同様にレベルが低い。


そして、麻生大臣の主張はこのうち「b.セクハラで区切った罪はない」だと思う。先の理由のとおりこの主張自体は正しいが、「罪」の解釈によっては否定され得るし、a.の誤解を生むという点で政治家としてのワーディングも最悪である。

 

 

②本意の正当性


次に、そもそも麻生財務大臣はなぜこんな発言をしたのだろうか?


「セクハラで区切った罪はない」は、例えば「人を殴ったことだけで区切った罪はない」と言っているようなもので、ある意味当たり前の話であり、「なぜそんな当たり前の話を発したのか」は当然にして問われるだろう。むしろそこを問わずして麻生大臣を擁護する人は思考停止である。


そこで、発言の前後から、麻生さんの本意を考える。私としてかなり好意的に察するに、以下のような意味合いではないかと思われる。それはつまり、「例え財務省が認定したとしても、法的に正当な手続きを経ていない限りにはおいては、その疑惑をもって人を罰することはできない。」ということ。仮にこの推察が正しいとしたら、この主張はシンプルに誤りである。
なぜなら「財務省の認定のみで加害者を罰することは可能」だからである。前述の通り、男女雇用機会均等法では、会社側に男女平等の職場環境を整備することを義務付けている。「義務付けている」ということは、会社の裁量の範囲内において罰則を付すことに合理性を与えている、ということだ。実際、その義務を背景に、今回財務省は福田事務次官のセクハラ疑惑を調査し、その結果として最終的にセクハラの事実を認定し、退職金の減額を行った。このプロセス自体に法的な瑕疵はまったくない。(ここで、「第三者委員会でないと公平な調査ではない」「罰則が軽い」といった批判もあるだろうが、これもまた話がややこしくなるのでグッと堪えていただきたい。)


勿論、社内調査による事実認定の正当性が争われることはあるが、「社内調査で認定し、罰則を加えたこと」の行為自体に違法性が問われた話は聞いたことがない。つまり、「財務省の認定だけで罰することはできない」は誤りだ。

 

そして、先の麻生大臣の考えは、「なぜか今回の件を他人事と認識している」という点でも非難される。


財務省がセクハラの事実を認定した」ということはつまり、麻生大臣も、「大臣本人の意思は関係なく」、制度上は、福田事務次官のセクハラを認めていることになるのだ。しかし麻生財務大臣はさも自分は客観的立場かのように、「いくら財務省の機関が認定しても、それを理由に罰することはできない」という。どうしてそんな他人事のように語られるのか。だって、「自分はセクハラを認定するけど罰さない」と言っているわけで、つまり「セクハラを罰さない」という主張だ。そんな許されない主張を、「私は客観的立場から語っているに過ぎない」という論理的に不可能なフィルターをかけることで語っているのだ。(麻生大臣のこの「論理的に不可能なフィルター」を使いがちであり、その態度については③でも論じたい。)

 


③発言すること自体の正当性


最後に、発言すること自体の正当性を考えたい。麻生財務大臣を擁護する人の多くは、この論点が抜け落ちていることが多い。


少し話がそれるが、以前に三浦瑠麗さんがテレビで「特定地域に特定民族のテロリスト分子が存在すること」を発言して問題になった。このとき、「事実を言って何が悪いのか」と三浦さんを擁護する意見があったが、それは論点がズレている。三浦さんが批判されたのは「不都合な真実を言ったこと」に対してではなく、「その発言の影響を考慮できていないこと」である。つまり、三浦さんの発言によって(過去あったし、今も残る)民族差別が助長されることへの意識の低さが非難されているのだ。要は、「事実」と「事実を話すこと」には差があるということだ。


ここで、話をセクハラ問題に戻す。


セクハラは、被害者が被害を訴えることに、とてもハードルが高い事象である。そもそも、セクハラは加害者が被害者に対して、圧倒的な力関係の差を利用して行うことが多い。そのため、被害者は加害者からの報復を恐れて簡単には被害を訴えられない。また、問題が表面化すれば具体的な内容が公表されたり、場合によっては「それぐらい我慢しろ」「ハニートラップじゃないか」といったバッシングを受けることもある。こういった前提を考慮すれば、セクハラ被害者が被害を訴えやすい環境を構築する必要があることは明白であるし、仮に訴えがあった場合は、被害者と加害疑惑者の両者の尊厳を最大限に守りながら事実調査を行う必要がある。


そして、今回の件では加害者は財務省事務次官という権力中の権力である。世間の注目も高く、最高レベルで慎重にコトを進めなければならない。


そしてやはり麻生大臣も国会議員および財務大臣という権力である。また、加害者が所属する会社(今回は省庁)の最高責任者であるという意味では、本件の当事者である。


そのような前提を考慮すれば、麻生大臣が本件について第三者的に語ることはできない。なぜなら第三者ではないからだ。


つまり、権力者でもあり当事者でもある麻生大臣が、加害者擁護とも取られかねない発言をすることは、被害者にとって精神的な苦しみを与える可能性があることは十分に考えられるのだ。よって、麻生さんの発言は批判される。

 

なお、本発言とは別ではあるが、過去に麻生大臣は「はめられて訴えられているんじゃないかとか、世の中にご意見ある」という発言をしている。これにも「世の中の意見を述べただけ」「実際にその可能性はある」という擁護があった。しかし、「実際に可能性があること」と「『可能性がある』と発言すること」はまったく異なる。麻生大臣は当事者なのだから、本発言が被害者に与える精神的な苦痛について責任がある。自身が発言することによる影響を理解していないという点で、これも同じように批判される。

 


以上が、私が麻生財務大臣の「セクハラ罪はない」発言を批判する理由だ。上記の論理を踏まえた擁護派意見があれば、ぜひ聞かせていただきたい。

 

(なお、本件に限らず、ある発言の正当性を論じるときは、このように3つの角度に区分することをオススメする。実際、批判者と擁護者が異なる角度で論じているために、議論が噛み合っていないことがたびたびある。)

 


◼︎では、麻生大臣の正解ルートは?


ここまで麻生大臣を批判すると、人によっては「結局何をしても揚げ足をとって批判するでしょ」と投げやりになって怒る人がいるかもしれない。そこで、麻生大臣がとるべきだった正解ルートを提案したい。逆に、(これはマスメディアの主張に多いが、)正解ルートを提示しない批判はフェアではない。批判を建設的なものにするためには、正解ルートの提示が必須である。

 

〜麻生大臣の正解ルート〜
①第三者委員会を発足し、その調査に全面的に協力する姿勢を示す。
②第三者委員会の調査結果でセクハラ事実が認定されたら、財務省内でその結果を確認させ、財務省としての結論と罰則を決定させる。そしてそれに従う。
③仮に加害者が財務省の決定に不服とした場合は、法的に対応する。
④再発防止策を作り、公表し、実施する。
⑤責任をとる。(辞任、給与返納)

 

(勿論、第三者委員会の調査結果でセクハラ事実が認定されない場合もある。その場合はまた別の正解ルートがあるが、ここでは省略する。)

 

以上が麻生大臣の正解ルートだ。


セクハラ問題の対処方法を少しでも学んでいれば、十分に辿れるルートである。そして、このルートを通ることができない人間が大臣を務めることの適切性も、議論されるべきである。

 


◼︎最後に


本発言をきっかけに、セクハラ行為を法的に有罪とすることのハードルの高さが問題視されている。

 

例えば、仮に今回の福田事務次官の行為の違法性が裁判で争われることになった場合、たとえ録音された発言が事実と認定されたとしても、福田事務次官が有罪となる可能性は必ずしも高くはない。身体的接触のないセクハラは、その程度が相当に悪質であることが必要であるのだ。今回の件がそれにあたるとは断言できない。それぐらい、セクハラ行為の違法性の認定は難しい。無論、安直な認定は危険であり、冤罪リスクとのバランスも重要だ。

 

この問題に対する議論が今後活発化することを、私は期待している。